2019/04/17

仏教が最後に到達した思想・密教とは何かを簡単に説明します。  宇宙の真理を表す仏・大日如来が衆生をあまねく包み込む




1 高野山という言葉の持つイメージ



和歌山県の高野山と聞いて、どんなイメージが想い浮かぶでしょうか?


霊的な場所・多くの観光客・弘法大師・聖なる山・空海・真言宗・お遍路・金剛峯寺


などでしょうか。








2 密教という言葉の持つイメージ



では密教と聞いて、どんなイメージが想い浮かぶでしょうか?


秘密・火を焚く護摩・怪しい・おどろおどろしい絵画や彫刻・阿字観・タントラ・曼荼羅


などでしょうか。

このように、言葉にはある特定のイメージが付きまといますが、その断片的なイメージは一側面を表しているに過ぎず、そこから実体や全体像を掴むことは容易ではありません。



3 すべての物事は多面的で矛盾を抱えている



ただし人間もそうであるように、すべての事物は多面的であり、かつ矛盾を抱えていることも多く、包括的にでさえ、分かりやすく伝えることは難しいかもしれません。

たとえば、人間には自分は死にたくないという自己保存の本能があるはずですが、それと同時に、アポビオーシスと呼ばれる寿命による細胞死が組み込まれています。

死が遺伝子に組み込まれているにも関わらず、それでいて死を恐れるのはよく考えると奇妙であり、この一事をもってしても人間は矛盾しており、何かを定義することの難しさが分かりますが、ただそれでも冒頭の問いに戻り、密教とは何かを考察していきたいと思います。

このような大きなテーマに、在家信者でもない私が挑むのは不遜なことかもしれませんが、外から眺めて初めて見えてくる景色もあるはずです。



4 慈悲と利他について再考する



そして、毎日と言っていいほど不幸なニュースが駆け巡る世知辛い現代社会において、今一度、仏教の根本命題である他人を慈しむ心である慈悲や、他人のために働こうとする利他の精神を考えてみたいと思います。

日本における密教は、弘法大師が開いた真言宗の東密と、伝教大師が開いた天台宗の台密に分けられますが、二人が唐から帰国した後に、最澄が空海に教えを請うているように、唐で正統な思想を学んできたのは空海でした。

そして、この密教の特徴は、欲望を否定していない点にあります。



5 物質もお金も肯定する合理的な教え



仏教というと、剃髪して出家するお坊さんのイメージから、俗世間のしがらみや欲望を捨て去るとの認識があるかと思いますが、密教は物質もお金も否定していません。

例えば、次のような言葉があります。


餓えた子供にとって、文学は一体何の意味があるのか?


これは芸術論に関する言葉ですが、宗教にも置き換えることができ、もし悩みを抱える者が存在し、その理由が飢えであるならば、その状況で必要なのは坊主の説法ではなく、念仏でもなく、食べ物であり、食べ物を買うことのできるお金です。

そういう意味で、物質や金銭を肯定する密教は現実に即した合理的な教えですが、もしかしたら都合のよい教えと捉える方がいるかもしれず、またこの思想を悪用する輩が出てくるのも当然と言えるでしょう。

ただし、宗教や救済の思想とは、社会に還元して初めて意味を持つとの考えに立つとすれば、やはりこの教えを支持したいと私は思いました。



6 性欲すらも肯定する密教



そして密教は、大胆にも性欲すらも肯定しています。

性欲とは、生物の特徴である自分の子孫を残そうとする自己複製の大元であり、遺伝子に組み込まれた根源的な欲求ですが、性にまつわるトラブルがあちこちに存在するように、我々を惑わしたり、執着となるものであり、扱いにくい性質であることは確かです。

そのため、初期の仏教は性欲を忌むべきものとして扱いました。

しかし、時を経て変質していった仏教は、最後に密教という思想を誕生させ、理趣経という経典では、大胆にも性欲や愛欲を肯定するにまで至ります。

もちろん、自己本意の性欲を認めているのではなく、性欲のエネルギー活かし、それを清浄で巨大なものに育てていくという考えです。

つまりこの考えは、執着から離れようとするのではなく、受け入れた上で、その執着の力を活かしていくという考えです。


7 何物にも囚われないゼロベース思考



前回当ブログで、アメリカで禅の教えを広めた鈴木俊隆氏の著書を取り上げ、囚われないことの大切さを述べました。

専門家は、過去の経験や知識に囚われてしまい、新たな地平を開くといった、革新的な着想を得ることが難しくなるのは事実かもしれません。




ビジネス現場で使われるゼロベース思考とは、この囚われない思考方法であり、執着しない心の持ちようは、どんな場面でも重要だと言えるのは確かです。



8 執着しない心の持ちようと他人への無関心



ただ、我々が日々ニュースで接している、他人の死について心が動かされない、無関心、執着が沸き起こらない点についてはどうでしょうか?

自分と関り合いのない人間は、どうなろうと知ったことではないとする態度は寂しいですし、そのような社会の行き着く先は、単に利害得失だけを追い求める虚しい社会でしかありません。

ただそうは言っても、赤の他人に想いを馳せるのは、なかなか難しいものです。

私も図書館などで借りた本を、次の人のことを考えずに延滞してしまったり、継続して何度も借りてしまうことがあるように、見ず知らずの他人に想いを巡らせることは難しいものです。



9 ヒトは他人や生態系によって生かし生かされている



しかしこれも見方を変えれば、例えば、今日お昼に秋刀魚(さんま)定食を食べたとすると、お茶碗一杯の白飯だけでも、見ず知らずの多くの人の手が掛かっていることが分かります。

お米を生産する農家だけでなく、田んぼを耕す機械を製造する会社、その工作機械に燃料を供給する会社、稲から取れた籾(もみ)を精米する機械を造る会社、袋詰めにされたお米を各地に運ぶ運送会社、そのお米を販売する小売店、お米を炊く電気やガス炊飯器を造る会社、お茶碗を作る会社、お米を料理する飲食店、果ては食品衛生法の制定に関与した者という具合に、目の前に出される一杯の白米だけでも実に多くの人間の手を経ています。

日本語の「いただきます」とは、いのちのめぐみや自然の恵みに感謝するだけでなく、このように間接的に携わった人たちに対する感謝の言葉でもあるはずです。

その人たちがいなければ、いま目の前にある一杯のお米すら食べられないことを理解し、そこに関与した人たちへ感謝の気持ちを抱くようになれば、そんな感情こそが、他人を慈しむ心である慈悲や、他人のために働こうとする利他の精神に繋がっていくのではないでしょうか。

そして、そのような心持ちの人が増えれば増えるほど、赤の他人の死に接し、皆で悲しみを共有できる、人に優しい社会へと繋がっていくのではないでしょうか。



10 執着を捨て去るのではなく、受け入れて大きく活かしていく教え



ということで、密教の本質は何かという問いに対する答えは、執着を捨て去ることではなく、近親者の死にだけ執着することでもなく、誰にでも分け隔てなく執着することであり、さらにはその執着を大きくしていく思想だと解釈できます。

イギリスの劇作家であるウィリアム・シェイクスピアは次のような言葉を残しています。


避けることができないものは、抱擁してしまわなければならない


この言葉は、仏教が辿った性欲に関する一つの答えのようにも思えます。

ただこの原文の英語を調べたところ、抱擁に対応する単語はどうやら「encounter」であり、もしかしたらこのシェイクスピアの名言は、本人だけでなく翻訳者の腕のなせるわざなのかもしれませんが、「受け入れる」という現状維持的な表現ではなく、「抱擁する」という積極的な表現に妙味を感じられ、その名声に違わぬ言葉の使い方と言えます。

また密教は、このシェークスピアの言葉のように、土着の神々を排除するのではなく、積極的に取り込みながら、大伽藍の哲学体系を築いてきました。



11 論理として成り立つ「ゼロ=無限大」



今まで述べてきたように、密教は誰にでも分け隔てなく執着し続けることだと解釈できますが、執着から離れることと、すべてのことに執着することは、ビジネス現場における何物にも囚われないゼロベース思考が、裏を返せばすべてを考慮に入れるということから、両者は表裏一体の同じ事柄と言えます。

つまり、何もないことと、すべてあることは、同じ事柄を別の角度から表現しただけであり、


無一物 即 無尽蔵

ゼロ=無限大


の命題も、論理において成り立つと言えるでしょう。







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