2019/03/11

第六天魔王・織田信長はサイコパスの虐殺者だったのかを様々な逸話から検証してみる






戦国の風雲児 織田信長 第六天魔王 サイコパス 虐殺者


HiCさんによる写真ACからの写真 


織田信長を題材にして本を書けば、一年は飯が食えると言われてきた出版界において、過去、様々な作家によって信長は料理されてきました。

その人物像は、それこそ作家の独自な視点によって描かれてきたわけですが、その中で信長が起こしてきた敵の殲滅については、血で血を洗う戦国の世において、天下を平定するためだったという概ね好意的な解釈が取られてきました。

しかし、ここにきて状況が変わってきたようです。





美人脳科学者と呼ばれている中野信子氏が、根拠もなく著書で信長をサイコパスと断定したり、安倍応援団の筆頭である百田尚樹氏が、歴史本「日本国紀」で虐殺者と断罪したり、作家の垣根涼介氏が、小説「信長の原理」で人を人とも思わぬ信長像を描くなど、なぜか現代版・信長包囲網が敷かれているようです。

確かに信長の逸話として、比叡山の焼き討ち事件が有名であり、他にも、街中で柿を食べ歩くといった行儀の悪さや、服装のだらしなさや、父信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつけるといった無作法や、そんな信長のうつけぶりに悩んだ傅役の平手政秀が諌死したなどがあります。

しかしその一方で、家臣の討死に接して涙したり(信長公記)、天女に変装して民衆と一緒に踊ったり(信長公記)、雨露に打たれる街道の乞食を助けたり(信長公記)、死が目前に迫る本能寺の変で女性たちを逃がしたり(信長公記)と、温かい人間味のあるエピソードが残されています。

そのような逸話を無視し、百田氏は著書で、


元亀二年(1571)の延暦寺との戦いでは、寺を焼き尽くし、僧だけでなく女性や子供まで数千人を皆殺しにした。天正二年(1574)の伊勢長島の一向一揆鎮圧の際も、女性や子供を含む二万人を皆殺しにしている。


引用 日本国紀 P141 百田尚樹 幻冬舎 


と記したことについてツイッターで、


141pで書いた信長の所業は、極めて例外的殺戮であり、言うなれば彼の個人的犯罪に近い。


引用 ツイッター 百田尚樹


とあたかも信長を殺人鬼のごとく断罪しています。

このように、信長の虐殺事例として「比叡山の焼き討ち」や「一向一揆」がよく語られますが、当時の寺社は、広大な土地や多くの金といった権力基盤を持ち、それらを守るために武装し、それだけならまだしも、信者を駆り出して敵対宗派に襲撃をかけるような組織でした。

天文5年(1536)7月に起きた天文法華の乱(てんもんほっけのらん)から分かるように、この事件は、比叡山延暦寺の衆徒が京都の日蓮宗徒を襲撃したというもので、このときの犠牲者は一万人にも達したと言われ、京都の大半が火事で焼失しました。

これらの武装宗教集団は、信長の中立勧告に再三背き続けたため攻撃を受けたのであり、当時の原理からいけば、そんな組織を殲滅したことは虐殺には値しません。

虐殺とは、無抵抗で弱い市民を一方的に殺害することであり、むしろ善良な信者を騙して洗脳し、女性や子供まで戦いに駆り出す似非宗教集団に問題があるのであり、それは現代でも変わりません。

まさに中野信子氏が褒め称える創価学会がいい例です。

教祖の池田大作氏は、ヤクザの後藤組に汚れ仕事を押し付けておきながら、表では善人ズラする悪だと元組長の後藤忠政氏に言われており、またレイプの加害者として訴えられながらも、裁判所に出廷せず逃げ回るような姑息な人間でもあり、パナマのノリエガ将軍が暴露したように、CIAの手下となって麻薬の資金をマネーロンダリングし、また平和を謳いながらもイラク戦争に賛成し、大量虐殺に加担しており、こんな人間を崇め奉るよう善良な信者を騙しているのです。

どんな理由があろうと、戦争に賛成しているだけで、とんだ似非宗教家のペテン師を戴く教団でしかありませんが、結局イラクが所持していたという大量破壊兵器の情報も虚偽であり、それによって約50万人もの無辜の民が殺されていますが、池田教祖は責任を取った様子もなく、まさに中野信子氏の言うように、平気で嘘を吐き、罪悪感ゼロのサイコパスです。

このような扇動者に、宗教の救済という善の側面が悪用され、真面目な人や悩みを抱えた人が取り込まれ、都合よく利用されてしまうのは今も昔も変わりませんが、信長は乱世の掟の中で、慈悲の眼差しを向けながらも、殲滅しなければ再び歯向かってくるという合理的な判断を持って、天下泰平のために戦闘をしていたと思われます。

それは、宣教師ルイス・フロイスが書き残した、信長は人情味と慈愛を備えていたとの記述からも裏付けられます。

書籍「日本国紀」では、フロイスが記した信長の人情味と慈愛の項目が省かれていますが、なぜ百田尚樹氏が時代背景や歴史的事実を考慮せず、信長を個人的に貶めようとしているのか知りませんが、信長がいなければ乱世がもっと長く続き、パックス・トクガワーナと呼ばれる徳川の平和な治世が遅れてやってきたことを理解しているのであれば、当時の寺院が、戦国大名と同等かそれ以上の兵力と武器を持っていたとの認識があるのであれば、個人の資質による虐殺などという言葉は出てこないはずです。

垣根涼介氏の小説「信長の原理」にしても、信長が多くの家臣に裏切られた理由を、人を人とも思わぬ苛烈な人間だったからとしていますが、戦国時代は裏切りなど日常的に起きており、江戸期や明治期における儒教的な武士道とは違い、利害や己の主義といったそれぞれの理由で動いていました。

その証拠に、信長の忠臣であった羽柴秀吉の行動が挙げられます。

秀吉は主君・信長の死を伝え聞いたとき、家臣の黒田官兵衛に次のように言われたとの話があります。


「殿の御武運が開けるときが参りましたな」


こう言われた秀吉は苦い笑いを浮かべ、


「主君の仇を取るまでだ」


と言ったとか。

恐らく秀吉はこの時、


(お前に言われなくてもそんなことは分かっている)


と心の中で思っていたようです。

なぜなら、秀吉は光秀を倒した後、織田家の権力簒奪に一点の曇りもなく突き進むからです。

自分を引き立ててくれた主君の恩義など無視し、「惟任退治記」で信長の最期を汚す場面を描かせ、織田家の庇護者・柴田勝家を追い落とし、信長の三男・織田信孝を自害させ、権力を手中に収めていきます。

信孝の辞世の句は、以下のように秀吉に向けた怨みに貫かれています。


昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前


これらを考慮すれば、信長の忠臣であった秀吉ですら、隙あらば下剋上を狙っていたことが分かります。

つまり戦国を貫く原理とは、力と力の戦いであり、必然的に裏切りを内包していたのです。

明智光秀の裏切りにしても、信長の残虐性や冷酷さからくる怨恨説が唱えられていますが、その象徴的なエピソードであるドクロの盃で酒を強要した話は後世の創作です。

確かに、信長の家臣・太田牛一の記した信長公記には、浅井親子と朝倉義景の頭蓋骨を酒宴の席で披露したことが記されており、しかもそのドクロは、漆に塗られた上で金粉が施されていたようですが、この加工は司馬遷の「史記」にも見られ、古代中国で行われていたその意味とは、討ち取った敵に敬意を評し、その勇気を取り込むためであったようです。参考文献http://douzoukenkyu.blog101.fc2.com/blog-entry-87.html

つまり、このドクロを酒宴の席に持ち込んだことは、信長の残虐性や冷酷さを表すどころか、まったくの正反対であり、争った強敵と自軍の武勇を労う意味でした。

他にも、酒宴から中座しようとした光秀に対し、キンカ頭と信長が怒鳴って頭を打った逸話や、大きい盃に入った酒を強要し、拒否する光秀に脇差を突き付けて飲ませた逸話も後世の創作であり、光秀が家康への饗応で腐った魚を出したため、信長の怒りを買ったという話も秀吉に近い人間が後世に創作したものです。(川角太閤記)

もちろん信長に苛烈な一面があったのは確かです。

将軍・足利義昭の行状を咎める異見書や、次男・信雄の負け戦を叱責する折檻状や、古くからの重臣であった佐久間信盛に対し、全く武功を立てていない事を長い文章で攻め立て、追放したことなどが挙げられます。

ただこれも、室町幕府13代将軍・足利義輝を攻め殺した松永弾正や、自分の甥である豊臣秀次を一族郎党まとめて根絶やしにした秀吉と比較すれば穏やかなものです。

秀吉に関しては、聚楽第の白壁に記された自分への批判の落書きに対し、警備担当者17名の不備をとがめ、鼻と耳を削いで磔にし、さらに、犯人とされた尾藤道休は本願寺で自害したにも関わらず、尾藤の住んでいた町を焼き払い、しかもその町の住民を捕縛し、京都の六条河原で磔にして無惨に殺害した事実さえあるのです。

信長に関し、一部では家康への暗殺を光秀に指示し、光秀が断ったために足蹴にされ、それがの謀反の要因として語られることがありますが、これもあり得ないでしょう。

なぜなら、豊臣秀吉が徳川家康を関東の地に転封させように、また江戸幕府が、脅威とみなした加藤家や福島家を改易という形で取り潰していったように、長い目で見れば他にリスクのない方法がいくらでもあったからです。

当時信長は、平定した領地を親族に与え、織田政権を磐石のものにしようとしており、そのような時に、何ら咎める点のない同盟者を暗殺などすれば、身を粉にして働いてきた他の司令官が不信を抱き、自分も同じ目に遭うと判断して反旗を翻すことが予想され、それが政権の動揺に繋がることなど容易に理解できたはずです

当時の武将たちは、信長に恐れおののき、ひれ伏していたとする証言もありますが、織田軍の猛将・柴田勝家の壮絶な最期を理解すれば、恐怖で従わせることなどできるはずもないのです。

勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた後、居城であった越前北ノ庄城で自害しますが、その切腹は、腹を十文字にかっさばく見事な死に様だったことが記録に残っており、また、最後まで付き従った家臣に対し、逃げるよう勧めるなど度量の広さも持ち合わせた人間なのです。

仮にこれらの話が創作だとしても、常に死と隣り合わせに生き、負ければ斬首や切腹といった最後が待ち受けている時代に生きていた戦国武将たちが、いくら信長が居丈高だったとしても恐れ戦く(おそれおののく)はずもなく、そのプライドからぞんざいに扱えるはずもないのです。

信長は、秀吉のように言い掛かりで家臣や住民を虐殺したことはなく、自分を裏切った、いやこの時代であれば殺そうとした弟の織田信勝(信行)、柴田勝家、松永久秀を許しており、再び裏切った信勝を止むを得ず殺害した後も、その子供である津田信澄を育てているのです。

つまり織田信長の実像とは、己の力以外頼れるもののない血みどろの乱世の中で、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが「日本史」で記したように、厳格な正義と名誉心に支えられながらも、人情味と慈愛を備えた武将だったと思われます。

もちろん、フロイスの記述は、一次情報だとしても全面的に信じることはできません。

なぜなら、当時のローマ・カトリックの宣教師たちは、スペインやポルトガルの国家的な庇護を受け、侵略の足掛かりを得る尖兵としての諜報要員であり、また布教の目的は、後からやって来る軍隊のために、信者を内乱用に利用するためでもあった事実は、大航海時代のアジアやアメリカにおける侵略の歴史から確定しており、日本においては、現地で改宗させた大名や信者に神社仏閣を破壊させたり、日本人を奴隷として売り飛ばす商人とも協力関係にありました。

そのような敵情を探る役を与えられた人間は、本当に危険で重要な情報は残さないため、フロイスの記述は疑ってかかるべきですが、信長に関する残された事実や、客観的に記された一次資料の「信長公記」と照らし合わせれば、信長が単なる虐殺者であったという結論は導けません。

信長とは、やらなければやられる殺伐とした時代の中で自ら軍を率いて先陣を切る男であり、勝てる見込みのない桶狭間の戦いでも家臣をまとめ上げることができ、人質でもその器量を見抜けば蒲生氏郷のように自分の娘を嫁がせたり、身分の低い家来とも親しげに話す分け隔てのない人間で、正徳寺(聖徳寺)の会見では、主筋の人間をことごとく非道な手段で始末してきた斎藤道三を唸らせ、最後はそのマムシの道三から所領を譲るとまで言わしめた戦国武将なのです。

今川義元を破った桶狭間の戦いでは、信長は前日に家臣と雑談しかせず何も決めませんでしたが、圧倒的に不利な状況において、中途半端な軍議をしても意味がないことを理解しており、現代でも、どうにもならない状況のとき、無駄な会議をしても意見の集約を見ず、右往左往して事態が進展しないことと同じであり、合理的な精神が見られます。

このような窮地で求められるのは、取るべき手段を決めたあと、その一点の突破に賭けることであり、信長は、この日の明け方に一気に出陣命令を掛けたように、ここぞの決断力と実行力を兼ね備えていたことが分かります。

また、軍議を開かなかったことで、今回は流石に殿も怖じ気づいたかと家臣に疑心暗鬼を抱かせながら、電撃的に出陣命令を掛けたように、まさに静から動へ緩急をつけることで家臣を引き寄せる演出を行なっています。

そして軍団が集まった熱田神宮では、神をも信じない信長でしたが、結束力を高めるために願文を奉じたように、こちらでも演出できる柔軟性を備えており、しかも桶狭間で使用した奇襲攻撃はその後使用していないように、成功体験にも固執せず、また死に臨んでも周りの女性に配慮できる武将だったのです。

ということで、


織田信長は単なるサイコパスの虐殺者だったのか? 


という冒頭の問いは、そうではないと結論付けます。

なぜ、安倍晋三の太鼓持ち・百田尚樹氏や、創価学会の信者と言われる中野信子氏や、作中にジョージ・ソロスの文を引用した垣根涼介氏らが、個人的な恨みがあるかのように信長を貶める記述をしたのか分かりませんが、もし織田信長に興味があれば、私の一番好きな小説である、辻邦生氏の「安土往還記」をお勧めします。

しかしそれにしても、いま宮迫博之氏や田村亮氏らが、反社会的勢力と関係を持ったことが大問題に発展していますが、知っていたのか知らなかったのかグレーな芸人が徹底的に追い込まれる一方で、山口組系暴力団の後藤組に、それも武闘派と目される団体に汚れ仕事を押し付けた創価学会が何食わぬ顔で平和を騙り、その宗教団体を基盤に持つ公明党が与党の一角を占めている日本とは、一体どういう国なのでしょうか?

しかも、脱会者は自殺に追い込め、というのが教祖の指令との通り、脱会者、批判者、勧誘を断った人間を仏敵と定め、集団で相手の頭がおかしくなるまで嫌がらせを行う団体でもあり、さらにはお布施等が非課税なのを隠れ蓑に、戦争屋から麻薬の金をマネーロンダリングする役割を与えられており、大量虐殺のイラク戦争にも加担しているのですから、真面目な会員の方々は、是非ともこのインチキ宗教団体の正体から目を逸らさずに、きっぱり決別してほしいと思います。

織田信長は、時代は違えどこういう団体と戦っていたにも関わらず、現在ではサイコパス扱いされてしまうのですから、後世に生きる我々は、情報操作に騙されず、真の実像に迫りたいものです。






参考文献(文字をクリックするとアマゾンや各サイトのリンクに飛びます)


黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録 矢野 絢也(講談社)

アメリカ殺しの超発想―「奴隷」日本よ、目を醒ませ!制度疲労をすぐ正せ!   霍見 芳浩(徳間書店)

創価学会 池田王国の崩壊―副会長の告発 永島 雪夫 リム出版

電磁波ノイズ




サイコパス 中野信子 (文春新書)





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