2018/12/23

近視眼的な思考から脱却できるたった一つの方法







近視眼的な思考 視野偏狭のものの見方

canvaより



目次  読了5分








1 パニック時に陥る視野偏狭


オレオレ詐欺などに遭遇してパニックに陥ったとき、人は目の前の状況だけしか視野に入ってこなくなります。

仕事で失態を犯した時なども、目の前の負の状況を解消することだけに追われ、余裕を失ってしまうこともあるでしょう。





上司や同僚から、「〜さん大丈夫?」と声を掛けられ、ハッと我に返った経験がある人もいるかもしれません。

このように緊急時に視野が偏狭となり、近視眼的な思考に囚われてしまうことは誰にでも起こり得ます。



2 木を見て森を見ず



そうでなくとも、普段から視野を広げて物事を捉えることは重要です。


木を見て森を見ず


という言葉がありますが、何かの判断に際して忘れてはならない戒めです。

よくある例え話として、象やキリンといった大きな動物を至近距離で観た時と、やや離れて観た時の違いが挙げられるように、対象をいくら間近で見ても判別つかないことが、後方から眺めてみると、その対象が簡単に把握できることがあります。

つまり、近視眼的な思考では対象を正しく捉えることはできず、対象を正しく捉えることができなければ、適切な判断を下したり、適切な対応を取ることができません。



3 事実を直視できなかった森鴎外



陸軍軍医総監であった森鴎外は、多くの死者を出していた脚気という病に対し、その原因は細菌であるとの説に固執しました。

結局それ以外の説に目を向けることができず、対象を見誤ってしまったため、犠牲者を無為に増やすこととなりました。

このように、対象を正しく捉えることができなければ、正しい判断を下すことができず、正しい対策を立てることもできません。

では、近視眼的な思考から脱却し、幅広い視野から物事を捉えるため、どうすればいいのかを考察していきますが、結論は紙の新聞を読むことです。



4 紙の新聞を読むことで得られる効果



先日、産経新聞が全国紙の看板を下ろすというニュースが流れ、私などは、とうとうなんちゃって保守新聞が愛想を尽かされたのかと思いましたが、多くの人はこの報に接し、新聞の購読率低下を象徴するニュースだと感じたかもしれません。

昨今はネットでニュースを読む人が増えていますが、紙の新聞を読む意義について、私の経験を踏まえながら深く論考してみたいと思います。



5 子供の読解力不足は活字離れ



2018年に出版された書籍、


AI vs. 教科書が読めない子どもたち(東洋経済新報社


は、その衝撃的なタイトルから話題になりましたが、子供たちの読解力低下を嘆く声は、あちこちで聞こえてきます。

その原因は、単純に多くの文章に触れていないことに尽きると思われます。

日本の教育は、伝統的に素読など読むことや書くことを重視してきましたが、ここにきて小学校での英語授業が本格化するなど、全ての教科の土台となり、思考の基となる日本語を学ぶ国語の授業が減らされ続けています。

このことを批判する急先鋒に、数学者の藤原正彦さんがいますが、何事も訓練しなければ上達はせず、また母語の読み書きがおろそかにされれば、当然語彙や言い回しも増えていかないため、子供達の読解力低下は必然の結果と言えます。

英語学習の推進は、経済界の要請などと言われているようですが、翻訳性能が向上しつつある現在、国は今すぐにでも日本語を学ぶ授業を増やすべきでしょう。

人間は言葉を用いて思考するのであり、その思考した結果が行動となり、その行動の積み重ねが人生をかたどっていくならば、思考の元となる母国語に力を入れなくてはならないのは疑う余地もありません。

現時点で資源のない国である日本にとって、人財の育成に注力しなければならない点は誰しもが理解しており、そうであれば、国は教育改革の一環として国語の授業を充実させなければならないはずです。

でなければ、いずれこの国は立ち行かなくなるでしょう。

これを公的機関が行わないのであれば、家庭で補完するより他なく、そこでフォーマルな日本語を学ぶ場として、新聞が上がってきます。

私は幼少期のある時期から、家の新聞をそれこそ舐め回すように読むことを習慣としてきました。

そのきっかけは、小学6年生の時だったでしょうか、同級生と二人で会話をしていたときのことです。

そこで相手が何気なしに発した「大気圏」という言葉を私は知らず、話の内容を理解することができませんでした。

それまでの私は、寝ても覚めてもサッカーという環境で育ち、ほとんど活字など読んでこなかったため、日本語の語彙力が圧倒的に不足していたのでした。

そのことを友達との会話で気付かされ、劣等感と危機感を抱き、それ以降、家にあった新聞に触れることを常とし、やがては隅々まで読むようになっていきました。

この新聞を読む習慣が、私にどれほどの効果をもたらしたかは不明ですが、正しい言葉を多く学び、文章を読む力がついたことは言うまでもありません。

ただし、これは紙の新聞でなくとも電子で事足ります。



6 紙新聞の効用は小見出しにあり




私が新聞を継続的に読むことで得た最も大きなスキルは、別のところにあります。

それは、興味のない記事が目に飛び込み、広範な知識が得られて好奇心も刺激される、という一般的に言われていることではなく、小見出しに隠されています。

新聞の一面記事欄を見てみると、大きな見出しの他に、小見出しが添えられています。

多い時は三つや四つ、見出しを補強する抽象度の高い単語や文章が記されています。

この小見出しを、見出しとともに目で拾うことが、紙の新聞を読む一番の効用だと考えます。

小見出しとは、全体に対する部分に相当します。

つまり新聞の一面記事を読むことは、骨組みの見出しに小見出しの部分と部分を繋ぎ合わせ、全体をイメージすることになります。

しかも部分を瞬間的に目で拾い、即座に全体像を掴むこととなります。

これは言い換えれば、木と木を繋げて森をイメージする訓練をしていることになります。

別の言い方では、点と点を繋げ、線と面をイメージする訓練です。

普段我々が自説や見解を述べる時、部分を繋げて全体を作り出します。

我々がある集団のリーダーとなった時、各構成員という部分をまとめて全体を作り出します。

人生についても同じことが言えます。

一人の人間が、自分の人生をいかに生きていくかを考える時、例えば、書物から受けた感銘や、自らが身を以て体験した出来事や、全てを貫く真理など、これらの部分を自分なりにまとめあげ、バックボーンたる人生哲学のようなものを決めていきます。

もちろん事はそう単純ではなく、点と点を繋げて線や面にすることが難しい場合もありますが、私は日々新聞を読むことで、木を見て森を見る視点が身に付きました。



7 部分と全体を意識することの大切さ




この効用は、当然逆の作用である森から木を抽出する訓練にも繋がっています。

記事本文を読んだ後、先に読んだ部分である木が頭に入っているため、要点がどこにあるのかを把握する学習になっており、もし新聞を熟読し、本文の記事から見出しと小見出しに戻れば、より一層本文の要点を頭に叩き込むこととなります。

我々が何か物事を理解するとき、必ず抽象的な部分を抜き出しています。

例えば、ヒトという哺乳類を理解する時、二本足で立ち、両手を器用に使い、服を着て、火を扱い、などのように部分を抜き出します。

つまり、まずは見出しと小見出しに目を通し、そこから本文に至る流れは、物事を理解するための格好の訓練となるのです。

そして、新聞の小見出しというものは、その単語や文章が実に的確で要領を得ています。

これがネットの見出しになると、紙面での見出しと小見出しを合わせた上で一部を削るので、部分をつないで全体を作り出す訓練にはならず、仮に部分が存在していても、視覚的に離れていないため訓練になりにくいでしょう。

私は成長段階に応じて様々な新聞を購読してきましたが、この無意識に行っているトレーニングが、大いにためになったと感じています。

そして新聞とは、今を鮮やかに切り取ったコラムをはじめ、世の中の今が世界的な視野で凝縮されています。

つまりこの一つの記事が、自分にとって、自分の属する集団にとってどんな意味を持つのかだけでなく、日本にとってどんな意味を持つのか、世界にとってどんな意味を持つのかを考えることに繋がります。

さらにこの一つの記事が、人類にとってどんな意味を持つのか、地球にとってどんな意味を持つのか、宇宙にとってどんな意味を持つのかまで視野を広げていけば、それこそまさに部分と全体、木と森の視点が身につくでしょう。


木を見て森を見ず


このことわざは、物事の理解に対する留意点として、何度繰り返しても言い過ぎとはならないものです。


8 私の説は変数の多い社会科学的なアプローチ



森鴎外の話に戻りますが、鴎外は当時で言えばエリート中のエリートです。

若くして東大医学部を卒業し、ドイツにも留学し、そして文学者としての地位も築いていたのですから、当然新聞は読んでいたはずです。

そのため、近視眼的な思考から脱却し、幅広いものの見方を獲得するために新聞が必要との私の説は、もちろんそこに数学的な厳密さはなく、変数の多い社会科学的なアプローチになります。

もっとも、明治時代の新聞は今よりも小見出しが少なく、また鴎外は、学術書の通読に多くの時間を割いていたのかもしれず、それがため、視野偏狭になったのかもしれませんが、現代の新聞を、ただ読むのではなく、部分と全体を意識しながら読むことが大切だと思われます。

紙の媒体を取り巻く環境は、読売新聞が25年ぶりに値上げを行なったように楽観視できるものではありませんが、一人の人間が成長していくにあたり、正しい日本語を身につける必要性はいささかも揺らぐことはなく、また各新聞社が蓄積してきた知見は、廃れつつあるこの国の活字文化を取り戻すために、大いに活用してもらわなければ困るのであり、社会の木鐸(ぼくたく)としての役割も、多くの人が期待していることでしょう。

ということで、近視眼的な思考から脱却する方法とは、紙の新聞を、見出しや小見出しを意識しながら読むことであり、そうすることで、広い視野で物事を捉える術が身につくはずです。










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