2018/10/10

いい歳をしたオッサンが、石原慎太郎氏の自宅・田園調布に自作小説を持って行きました。







都知事時代の石原慎太郎


出典 U.S. Government Works
Wikimedia Commonsより パブリックドメイン 


日本の保守が最後にすがる人物・石原慎太郎氏といえば、一橋大学在学中に芥川賞を受賞し、23歳という若さで颯爽と世間に登場しました。

その受賞作である「太陽の季節」は、裕福な家庭で育った不良の高校生・竜哉が、陰茎で障子を突き破ったり、飽きた彼女を兄貴に金で売り渡したりと、従来の日本的価値観を覆す若者が描かれ、センセーショナルを呼びました。






また本人は、俺が芥川賞を有名にしたと豪語するほどの自信家で、ヨットをたしなむ海の男でもあり、自作の映画化に弟を起用するよう交渉するなど、若い世代の台頭として取り上げられ、一躍スターダムにのしあがりました。

慎太郎刈りなる髪型や、秩序をものともしない太陽族なる若者も流行り、弟の裕次郎も俳優や歌手として成功をおさめ、小説家としての地盤を固めながら、時代の寵児となっていきました。

その後、1968年の35歳のとき、参議院の全国区から自由民主党公認で出馬します。

そのときに掲げられたキャッチコピーは、


「すべてを投げすて 祖国への奉仕を 決心しました」


でした。

その抜群の知名度からトップ当選を果たし、以降自民党の保守派として活躍し、政治以外でも様々な話題を振り撒きます。

1970年に、冒険家の三浦雄一郎氏が、高さ8,000mのエベレスト・サウスコルからスキーで滑る偉業を成し遂げましたが、このときの遠征総隊長を務め、後に作成された、


「エベレスト大滑降」


というドキュメンタリー映画は、


「THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST」


として海外でリメイクされ、世界で反響を呼びました。

1989年には、ソニーの創業者・盛田昭夫氏と、


『「NO」と言える日本』


を出版し、自己主張する日本の姿を全面に押し出しました。

1995年に63歳で議員を辞職した後は、東京都知事を四期の途中まで務めました。

都知事在任中は、多くの失言があったものの、8月15日に靖国神社へ参拝したり、TPPや小泉政権の規制緩和を批判したり、東日本の震災時にパチンコ規制を唱えたり、外国人参政権を否定したり、横田基地を取り返す発言をしたりと、歯に衣着せぬ愛国的な言動が人気を集めました。

それらの言動が、仮に総理になったとして、どれだけブレずに行えたか分かりませんが、私は好きでした。

また、破綻した夕張市長選に名乗りを上げた都の職員・鈴木直道さんを応援する姿や、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」で、特攻隊員と鳥濱トメさんとの交流を取り上げ、英霊を慰撫する姿も魅力的でした。

何より私が小説を書くきっかけとなったのは、石原さんでした。

田中慎弥さんが第146回の芥川賞を受賞したとき、


「貰っといてやる」


との発言が大きく取り上げられましたが、それに対して石原さんが、


「最近の小説は人生を反映したものがない」


と一蹴したのをテレビで目にし、私の心に火が灯りました。


「よし、俺の人生を反映した作品を書き上げ、石原さんに突き付けてやろう」


そう思い、小説を書き始めました。

このように、私が創造の道を志した直接的な契機は石原さんでしたが、ここに至るには幾つかの過程がありました。

まず始めに、私はこの丁度半年程前、長年自分を苦しめてきた悩みに対し、答えを見出だしていました。

そのことで、今まで悩みの解決や内に籠る怒りに消費していたエネルギーが、外に向かおうとしていました。

そのエネルギーが、小説を書く行為へ形を変えるのに、二つの前段階がありました。

一つ目は、当時読んでいた新聞に掲載されていた、懸賞エッセイに応募したことでした。

お題目は、子供が産まれたときに感じたことを百字程度でまとめるというもので、応募のきっかけは賞金目当てでしたが、このときに文章を紡ぐ歓びと、自分の中に眠る才能の原石に気付いたのかもしれません。

そして、この無意識の気付きが、ある出来事によって強烈に揺さぶられることとなります。

それは、当時小さかった娘と公園で遊んでいるときに起きました。

夏の熱い盛りで、蝉が鳴きしきる木々の合間に入り、脱け殻を一緒に探しているときでした。

私はその光景を目にしたとき、娘がキャッキャッと声を出してはしゃぐ横で、得も言われぬ衝撃に打ちのめされていました。

この名状し難い衝撃をどうにかして表現したい。

そうはっきりと認識していませんでしたが、私の体内には漠然とした疼きが宿っていました。

その疼きが石原さんの言葉によって顕在化し、創作の世界へ突き動かされていったのだと思われます。

そして私は、無意識にですが、掘り当てた原石を磨き上げなければならないと感じていたと思います。

たとえ、その原石がまったくの見当違いで、宝石のように光輝かなかったとしても、最後の最後まで磨き続けなければならないと感じていました。

それからの私は、作家のゾラが画家のセザンヌに語ったとされる言葉、「君は芸術的な素養はあるのだから、あとは技術を磨くだけだ」を自分に言い聞かせ、原石を磨き続けました。

その後、数年の試行錯誤を経て、誰にも負けないと思える作品が完成し、そこから幾多もの紆余曲折を経て、既存の文壇ではなく、自費出版もしくは自分で出版社を立ち上げて世間に討ち入りすることに決めました。

そこからとりあえずKindleで出したものの、宣伝費もなく、無名の作家が書いた小説など売れるはずもありません。

ただでさえ小説など売れない時代に、誰のお墨付きもない作品に金を出す人間はいません。

そこで私は、石原さんに帯を書いて貰おうと考えました。

そのために、まずは手紙を書くことに決めました。

手紙の内容は、日本の現状を憂いながら、石原さんの著作で好きなものを取り上げつつ、取り敢えず私の小説を読んでくれ、と記しました。

その上でもし何か感じることがあれば、帯だけ書いてほしい、それだけで構わない、と熱い想いを万年筆に込めました。

帯の文言もすでに決めていました。

この出来上がった手紙を、石原さんの自宅に持っていくことに決めました。

ネットで調べるとすぐに住所が判明し、GoogleEarthで外観を確認した上で、田園調布の自宅に伺いました。

調べていた赤レンガの家に到着し、表札を見て本人の家であることを確認しました。

ここでチャイムを鳴らすか迷ったのですが、とりあえずは止めておき、一先ずポストに投函することにしました。

ただ、もし手紙に感応してくれ、私の小説をすぐにでも読みたいと思ってくれたときのために、迷惑かと思いましたが、作品を印字したA4の分厚い束も一緒に投函しました。

その後、1、2ヶ月しても連絡がないため、再び自宅へ伺いました。

家に到着し、今度はチャイムを鳴らすと、お手伝いさんらしき女性が中から出てきました。

私は正直に、


「石原さんが好きで、是非とも私の書いた小説を読んで欲しい。とにかく会って欲しい」


と訪問の趣旨を告げました。

女性は、


「ちょっと待ってください」


と言い、家の中に入っていきました。

しばらくして再び女性が出てきて、こう言いました。


「すみませんがここは自宅なので、事務所を通してください」


ここで粘ることも考えましたが、取り敢えずは引くことにし、事務所の連絡先を教えてもらい、その場を後にしました。


何だ、石原はケチくせえ男だったのか


とは思いませんでしたが、俺なら三分ぐらいでも時間を作ってやるのになぁ、とは思いました。

もっとも、高齢で脳梗塞を患った影響もあるのかなあとも思いました。

とりあえず、手書きで電話番号が記された紙の切れ端を手にし、次のステップに進みました。

しかし、その後事務所へは電話をしませんでした。

なぜなら、世界の構造を理解するようになると、石原さんも単なる一つのコマであったことに気付いたからでした。

創価学会や統一教会、そして北朝鮮とCIAが背後に存在し、国家転覆と極東戦争惹起を目論んだと言われる地下鉄サリン事件の後に、彼が突如議員辞職した理由や、オウム真理教との関係を知ったときはまだ疑いの段階でしたが、日中対立を煽ることになった尖閣諸島の買い上げを発言した場所が、アメリカの戦争屋と関係の深いヘリテージ財団であることや、このとき総理であった野田首相に中国との戦争を迫っていたことや、また同じ時期に都知事を辞任して新党を結成しましたが、この裏にもジャパン・ハンドラーズの影が見え隠れしていたようでした。

他にも、「支那と戦争して勝つこと」と発言したりと、表のメディアにあまり流れていない情報を追っていくと、彼の愛国的な言動は究極のところ、日本と中国を分断させることで巨大な経済圏を作るのを阻止し、さらには極東に戦争を起こすといった、国際金融資本を利するためであることが理解できました。

過去を遡れば、日本のために動いていた田中角栄反対の急先鋒となり、雑誌・文藝春秋に「君国売り給うことなかれ―金権の虚妄を排す」を寄稿して、田中内閣退陣に一枚噛んでいたことも知りました。

一度会って、色々と真相を問い質してやろうかと考えましたが、時間の無駄だと思い、やめることにしました。

残念ながら、水道民営化や種子法廃止など売国行為へ直走り、政権を私物化する安倍晋三を未だに応援している石原さんは、所詮は偽物の政治家だったようです。

本人の公式サイトである「宣戦布告」を覗いてみても、戦争屋のディープステートと戦っているトランプ大統領に対し、パリ協定からの離脱など御門違いの批判を繰り広げています。

パリ協定は、その根拠となったCO2による地球温暖化が、全くの捏造であることが明らかにされており、しかも、世界の警察を止めると言っているトランプ大統領が在職時の今こそ、日本が独立するチャンスなのです。

押し付けられた憲法を破棄しろとまで言いながら、在日米軍の撤退や国連憲章の敵国条項削除を言いださない石原さんの自主独立は、所詮は極東で戦争が起きたとき、米軍の手足として自衛隊を働かせるための方便に過ぎないようです。

初めからマガイモノだったのか、途中から変心したのか分かりませんが、戦後における本物の政治家は、失脚するか殺された者だけであることがよく理解できました。

要するに彼は、ディープステート(国際金融資本)が用意した右のアイコンであり、良くできたイミテーションだったのです。

311のとき石原さんは、100億円の寄付をぶち上げた孫正義さんに対し、本当に払ったのかあの男、と疑う発言をテレビでしました。

孫さんは、会社が巨額の有利子負債を抱え、しかも税金をほとんど払っていないにも関わらず、テメエだけは巨万の富を得て、それを人気取りに使う、さもしい男であり、また国産OS・BーTRONの普及を妨害した男です。

ソフトバンクという企業は、役員がほぼ外国人で占められ、しかも何十億といった破格の報酬を得ていることから分かるように、会社自体が大きくなれたのはここに理由があるのでしょう。

会社の実態も、みずほ銀行が莫大な資金融通をしてくれ、国内外への企業へ投資をする投資会社であり、その目的とは、過去にイラク戦争でアメリカの世論を焚きつけ、大義のない虐殺に駆り立てたFOXニュースを所有するメディア王・マードックに指示されてテレビ朝日への買収を仕掛けているように、戦争屋(ディープステート)の思惑通りに市場への支配力を強めているだけで、彼は単なるパペットなのです。

そんな人気取りに精を出す孫正義を批判する石原さんに、多くの喝采が浴びせられましたが、所詮は石原慎太郎も、ディープステートの息が掛かった人間だったのです。

いわゆる得意の両建て戦法で、右も左も役者を用意し、都合よく植民地を治める分割統治・分断統治と呼ばれるものでした。

このことを理解したとき、私は独力で道を切り開かねばならない運命を受け入れました。

ただそれでも、石原さんが著書に記した言葉は、今でも私の中で輝きを放っています。

それは、エッセイ「孤独なる戴冠」の中にある、乾涸びて凍てついた一頭の豹の屍の話です。

その箇所を抜粋します。


ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」の冒頭のエピグラムにこんな言葉が記されてある。


キリマンジャロは、高さ一九,七一〇フィートの、雪におおわれた山で、 アフリカ第一の高峰だといわれている。その西側の頂は、マサイ語で「ヌガイエ・ヌガイ」即ち「神の家」と呼ばれる。その西側の頂きの近く、ひからびて凍りついた一頭の豹の屍が横たわっている。このような高いところで、豹が一体何を探していたのか、誰にもわからない。



かつて見たこの小説の映画化されたフィルムの中で、主人公はパリのカフェの馴染みのバーテンダーに、酔ってこの謎をかける。バーテンダーは考えた挙句、「多分、何かその豹だけに匂った匂いを嗅いでそこまで上っていったのだろう。間違った匂いだったかも知らないが」と、答える。


バーテンダーのその答えは多分正しいだろう。


豹は我々だ。青年は、その豹でなくてはならぬ。豹が一人で嗅いで伝っていったのは、彼自身の個性だったのだ。たといそれが結果として間違っていたにしろ、彼はそれをそこまでたどっていった。高い山の頂まで、勇気をもって。そしてそこに彼を待っていたものが凍死であろうと、彼は「神の家」を極め、地上のいずれよりも高貴な死の床を得たのではないか。それこそが彼の得た孤独の戴冠だった。


この病んだ時代の密林の中で、我々は捨てられた腐肉のみをあさる麓のハイエナであるよりも、高みに凍えて死ぬその一匹の豹でありたい。



引用 孤独なる戴冠 石原慎太郎 角川文庫


学生時代から第一線を走ってきた彼にとって、この言葉がどれ程の重みを持っていたのかは分かりませんが、私の支えになったことは確かです。

ちなみに、私が石原さんに頼もうとした帯の文言は、


「君を世に出すことは、僕に課せられた最後にして最大の使命かもしれない」


でした。

いやぁ、人気者の石原慎太郎が帯にこのフレーズを書き、大々的に世間に突撃すれば間違いなく売れるはずだ、なんて、とらぬ狸の皮算用をしていた過去の私でした。

今となっては、もう何も石原さんにお願いすることはありませんが、小説の感想だけは待ってますよ。

読まないでそのまま捨てたと思いますけど、あなたが芥川賞の選考委員を辞めるときに語った、


「私が足をすくわれるような新しい文学の現出のもたらす戦慄に期待し続けてきた。しかしその期待はさながら打率の低いバッターへの期待のごとくにほとんど報いられることがなかった」


引用 文藝春秋2012年3月号


この言葉が正しいかどうか、確かめてみる価値はあると思いますよ。

政治家としては戦争を起こそうとした5流以下で、作家としては3流ですが、批評家としては鋭い目を持つ石原さんの感想が是非とも聞きたかったなぁ。

あと、お呼ばれされた新築の三島邸披露パーティーを抜け出し、岡本太郎さんと語り合ったときの話も聞きたかったなぁ。







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