2018/05/29

現代純文学長編小説 「エイトケン盆地のうさぎ」 ビルに勤務する警備員が主人公です。







canvaより










横殴りの雨が、アパートの白壁を打ち付けている。

明け方から降り続く雨は、昼過ぎに風の勢いを増し、いつしか暴風雨に変わっていた。

塵芥で薄汚れた二階建ての白壁を、雨は音を立てながら、洗い浚い流していく。

ベッドの上で目を開けた佐藤は、締め切られたカーテンの隙間から洩れ出る薄明かりに覚めやらぬ眼を向けた。風が唸り声を上げ、激しく窓を揺さ振るなか、佐藤は再び目を閉じると、まどろみに身を委ねていった。

仕事を終え昼前に帰宅し、倒れるように眠りに付いてから、どれほどの時間が経過したのだろうか。ようやく目を覚ました佐藤は、眼前に広がる室内の闇に目を向けた。

佐藤のその大柄な体躯は、深くベッドマットに沈み込んでいる。

しばらくして目が慣れてくると、薄闇の先に天井が翳み、知覚した一月の冷気が肌を引き締める。ベッドに横たわりながら聞こえてくる雨音は、落ち着きを取り戻していた。

佐藤はベッドから起き上がると、部屋の明かりを点けた。

周りを取り囲む白色のクロスと共に、散らかる衣類やゴミが浮かび上がる。

その床を踏み分けてキッチンに向かい、ヤカンを手に取って水栓を開く。シンクにはいつのものか分からないカップメンの空き容器が積まれている。充分な水を入れ終え、ヤカンを火に掛けると、立ったままキッチンに腰を凭れ掛けた。

しばらくしてお湯が沸き、火を止める。用意したマグカップにコーヒーの顆粒を入れ、熱湯を注ぎ込むと、香りと共に湯気が立ち昇る。

佐藤は猫背の背を丸め、その場で飲み始めた。

温かいものが全身に行き渡り、二口、三口と続ける。すべてを飲み干して身体がほぐれてくると、本日の夕食を購入するため、外出する支度を始めた。

床に放置された黒のダウンジャケットを、浅黒い無骨な手が拾い上げる。ジャケットが大柄な体躯に収まると、佐藤はのそりのそりと玄関に向かった。

スニーカーを履き、立て掛けた傘を手に取ると、一〇六号室の扉を開けた。頭上の庇には、どんよりとした黄疸の明かりが灯り、冷たい色をしたコンクリートの通路を照らしている。

佐藤は鍵を閉めると、細長い通路を入口門扉まで歩いていく。

庇から落ちる雨垂れが、通路脇の茶褐色した地表を穿っている。

やがて門扉まで辿り着くと、佐藤は傘を広げた。

外は小雨に変わっていた。

佐藤は門扉を開けて道路に出ると、スーパーに向けて歩き始めた。







関東の郊外に位置する佐藤の家は、最寄りの私鉄駅から徒歩で十五分ほどの距離にあった。佐藤が越してきた三十年程前は、アパートの周囲には一軒家が点々とするのみで、辺りには更地や畑が広がっていた。だが越して来て数年後には、郊外にも押し寄せたバブル景気の余波により、瞬く間に周囲で宅地が造成され、今では辺り一面が建物で埋め尽くされている。

雨の降る夜の住宅街を、佐藤は傘を差しながら歩いていく。 

路面は静かに打たれ続け、投げられた街路灯の光を反射している。

路面に落ちた雨は、道路の縁を伝い、途中で落ち葉を連れながら流れていく。

その流れは先の側溝に落ち込み、底に張られた水面と衝突し、高い音を響かせている。側溝の閉じた空間で反響するその音は、まるで水琴窟から生じているようである。

やがて住宅街を抜けると、田畑の広がる場所へと出た。

駅から離れれば、まだ空き地や田畑の残る地域が存在し、手付かずの自然が見られる丘陵もある。

佐藤の向かうスーパーは、田畑の先に横断する大通りに店を構えていた。

大通りの交通量は、今居る場所から見る限り、いつもより激しいようである。暴風雨で外出を控えていた者たちが、雨が小降りになり出てきたのかもしれない。

田畑を縦に走る薄暗い道を、佐藤は愚鈍そうな足取りで進んでいく。

大通りを走る車たちは、続々とスーパーに吸い込まれ、店舗前に広がる駐車場に収まっていく。

やがて大通りの横断歩道へ至り、待っていた信号が青に変わると、左右に停車する車のヘッドライトに照らされつつ歩道を渡り、更にそこから少し歩くと、佐藤はようやくスーパーの敷地に入った。

店舗前に広がる駐車場を抜け、店内に足を踏み入れると、やはり普段と比べてお客さんが多いようである。

店に入った佐藤は、かごも取らずに奥へと進み、辿り着いた惣菜コーナーで立ち止まると、弁当を物色し始めた。

弁当には丸いシールが貼られ、三割引、半額等の記載がされている。予報では嵐が明け方まで続くとのことで、店側は少ない客足を見越したのだろう、品数は限られている。

佐藤は手に取りながら見比べ、その中から唐揚げ弁当を選ぶと、そのまま手で持ってレジへと向かった。

お金を支払い、カウンターの電子レンジで弁当を温めると、ビニール袋に入れて出口へ歩いていく。

買い物を終えて外に出ると、いつの間にか雨は止んでいた。顔を上げると、嵐に洗われた冬の夜空には、冴えた月が佇んでいる。


アパートに戻った佐藤は電気ストーブのスイッチを入れ、かじかんだ手を翳し、少しだけ揉み解したのちにキッチンへ向かった。出掛け前に沸かしたポットのお湯で、お茶を用意するためだ。少しでもお金を節約するために、家での飲み物は極力作るようにしていた。

お茶が準備できると、佐藤はベッドの傍らに移動し、空いた床のスペースに腰を下ろした。部屋で食事を取る場所は、決まってこのベッドの前だった。ベッドの側面に背を凭れ、胡坐の状態で座り、正面のテレビを見ながら食べるのである。

湯飲みを床に置き、ビニール袋から唐揚げ弁当を取り出すと、生温い感触が佐藤の手に伝わる。弁当は既に冷めているようだ。佐藤は丁寧にラップを剥がすと、そのまま蓋を外して食べ始めた。

黙々と箸が運ばれ、佐藤の口の中で、食べ物が噛み砕かれていく。

男やもめの汚れた部屋に、くちゃ、くちゃ、という咀嚼音のみが広がっていく。

この部屋の定位置に座り、一人で食事を取る光景は、高校卒業後に養父母の家を出て以来、三十年間変わらない。

佐藤は箸を置くと、側にあるリモコンを手に取り、テレビを点けた。

大柄で無口なこの男は、ずっと一人で生きてきた。養父母の家で生活していたときも、養父母の家を出てからも、長い間一人で生きてきた。

佐藤は再び箸を手にすると、物憂げに顔を上げ、腫れた瞼の下にある虚ろな目を画面に向け、食事を再開させた。



二 


枕元のベルが鳴り、佐藤は目を覚ました。時刻は六時十五分。外はまだ薄暗く、寒さは厳しい。佐藤は出勤の支度を済ませると、買い溜めしてあるバナナを一本もいだ。大柄な身体に似合わず、胃袋は殊のほか小さく、朝食は軽く済ませるのが常だ。

口に入れたバナナをお茶で流し込み、スーツの上着に袖を通してからダウンジャケットを着ると、佐藤は家を出て会社に向かった。

徒歩十五分の駅までは、自転車に乗っていく。八年前に、駅前のスーパーで購入した、何の変哲もない古びた自転車である。

バブル景気により拓かれた住宅地を抜け、無機質に整備された駅前に辿り着く。

駅の側にある二階建ての駐輪場に自転車を置き、少し歩いて陸橋の中央まで至ると、改札を潜っていく。

佐藤はこの駅から電車に乗り、およそ一時間四十分の間、座ったまま終点まで進んでいく。路線の始発駅ではないが、この駅から発車する急行がいくつかあり、それに乗ることで座席を確保することができる。

途中の停車駅で、通勤する乗客が続々と乗り込んできて、車内は押し合いへし合いとなるが、座っている佐藤に影響はない。

座席で何をする訳でもない佐藤は、目を閉じて時間が過ぎるのを待つ。

やがて巨大なターミナル駅の終点に到着し、四散しようとする人混みを掻き分けて地下街を通過し、ようやく地上に這い出ると、勤務地はそこから五分程の距離で、オフィス街の入口にあった。

「おはようございます」

玄関前に立つ守衛と挨拶を交わし、会社に到着した佐藤は、更衣室で着替えを始める。

制服によれがないかを確認し、全身を映し出す鏡を見遣る。

制帽を整え、右手を額へと掲げる。

「異常ありません」

佐藤は警備員として働いていた。

高校を卒業してから三十数年の間、警備会社の正社員として、誠実に職務をこなしてきた。

「佐藤さんこれ記入しといて。ついでにここにある書類もお願いできる?」

人の良い佐藤は、入社当初から様々な仕事を押し付けられた。だが、佐藤は嫌な顔一つせず、黙々とそれらの仕事に取り組んだ。年数が経ち、副隊長という責任ある立場に就いてからも、他人の嫌がる仕事は極力引き受けた。

「佐藤さんいつもありがとうございます」

そんな佐藤に対し、初めは遠慮しがちの後輩たちも、やがてはその好意を当然だと思うようになり、最後は全てを人任せにする。

佐藤は誰に甘えることなく、ひとりで生きてきた。





「次の巡回は佐藤さんね。頼むよ」

若い隊長に指示された佐藤は見回りに向かった。この建物は、地下一階地上二五階建てで様々な会社が混在している。建物自体は古いものの、鉄筋の数が多いらしく、頑丈のようである。

佐藤は地下一階の中央管理室を出て、業務用のエレベーターに乗った。そこから二五階まで行き、屋内階段で屋上まで向かう。まずは屋上を確認し、順々に階段を降りながら各階を調べていく。トイレの中ももちろん調べ、ゴミが落ちていれば当然拾う。
(異常なし)

声には出さないが、根が真面目な佐藤は、必ず指差し確認を行っていた。

このビルは事務所しか入居しておらず、商業施設のような賑やかさはない。警備員は、積極的な声かけを推奨されているが、不特定多数の人間がいるわけではないため、入居者と話す機会はあまりなく、トラブルもほとんどない。

各会社の事務室には入らないが、電気室や機械室、ポンプ室などの設備が置かれた場所は、鍵を開けて中を確認する。

一階まで確認したのち、建物の外に出て周囲を一回りする。外周部の確認が終われば、最後に地下一階を調べ、常駐場所の中央管理室に戻って行く。

今回の見回りも異常はなかった。佐藤は一旦中央管理室に戻り、隊長に異常がない事を報告すると、次の業務である交通整理に向かった。

一階の駐車場出入口で、通行人と地下へ行き来する車両の調節を図る。この業務に関してもトラブルはほぼない。通りを行き交う人はいるものの、建物に出入りする車はあまりなく、黙って立っている時間が多い。むしろ、道案内のために立っているようなものである。建物がオフィス街の入口に位置し、付近に似たようなビルが並んでおり、道を聞かれることが多い。また、オフィス街の隣に繁華街があり、そちらへの道案内をすることもある。

一時間後、何のトラブルもなく交通整理を終えた佐藤は、中央管理室に戻った。

日常業務はその他にも幾つかある。中央管理室でのモニター監視、業者が出入りする通用口の受付、建物玄関での立ち番などがあるが、どれも判断に迷うものはない。

火災感知器が作動したときは、当然対処しなくてはならないが、佐藤は資格を所持しており、この建物での勤務が七年になる佐藤は、消防設備など一通りのことは把握している。急病人の発生に関しても、事が重大であれば容易にはいかないものの、一応の資格は所持し、訓練も実施している。幸いにも、佐藤が勤務している間は、この建物で大きな事件はない。

夕方の七時になると、交代しながら仮眠を取っていく。狭い仮眠室には、二段ベッドが二つ据え置かれ、佐藤は下の段で横になる。但し時間は四時間しかなく、寝つきの悪い佐藤は寝不足になるが、会社が警備する他の施設に比べれば、断然恵まれている。人員の関係で三時間しか取れないところもあり、さらに大規模な複合施設となれば、夜間に起こされることも頻繁に出てくる。そういう訳で、このビルに勤務する警備員から文句は出てこない。


仮眠を終えて朝を迎えると、各自購入しておいた朝食を済ませ、パソコンの入力業務と手書きの書類作成を終えれば、あとは交代の九時を待つだけである。

当日の交代要員が出勤してくると、それぞれ申し送りを行い、九時に完全に交代すると、長かった二十四時間勤務がようやく終わる。

そこから遊びに行く若い社員もいるが、佐藤は寄り道をせず家に帰るため、そのまま駅に向かう。人がごった返す改札を潜り、電車に乗り込んで座ると、そこから一眠りしながら揺られていく。

駅に到着して改札を出ると、陸橋を素通りして駐輪場に向かう。

この駅に越してきた当初、佐藤はこの陸橋に立ち止まり、下を走る電車をよく眺めていた。今のアパートを借りることに決めたのも、この橋の上から見える景色が好きだったからだ。一時間でも二時間でも、飽きもせず眺めていられるお気に入りの場所だった。

佐藤は自転車を引いて駐輪場を出ると、サドルに跨り、家に向かった。 




 
今日は休みの日で、特に出掛ける予定もなく、佐藤は朝からテレビを見ていた。つまらないワイドショーしか流れていないが、他にすることもないため、ぼんやり画面を眺めていた。唯一の趣味である鉄道からは、長いこと遠ざかっていた。若い頃は、それなりの値段のする一眼レフカメラを抱え、休日はもちろんのこと、仕事を終えた朝方から一人で遠方に出掛け、ローカル線の電車を撮影していた。その縁から、いわゆる撮り鉄の仲間も数人でき、写真の品評会を楽しむこともあったが、次第に足が遠のくようになると、知人とは疎遠になっていった。今連絡を取り合うのは一人しか居らず、その知り合いも、一年に一度年賀状が来るだけである。カメラや昔撮った写真は、押入れの奥で眠っている。

休日は、買い物などの用事がなければ一日中家に居る。昼食はカップラーメンで済ませ、夜が来ると、いつもと同じ時間帯に家を出る。

佐藤は玄関の扉を開け、目の前に置かれた自転車を引き出すと、入口の門扉まで進んでいった。

今日は雨が降っていないため、いつものように自転車に跨ると、駅とは逆方向のスーパーに向かった。

少し自転車を走らせ、田畑の広がる場所に出ると、辺りは暗がりに覆われるため、空一面の星がよく見えた。周囲に建物はなく、道路には信号機もなく、外灯は所々に点在するのみで、輝きを放つ無数の星がよく見えた。

古びた自転車をのっそのっそと漕ぎながら、佐藤は田畑を縦断する道を進んでいく。

そんな中、猛スピードの車が通り過ぎることもある。信号機のない開けた道は、車が加速するのに格好の場所であった。先を横断する大通りから流れてくる車や、大通りに向かう車が高速で走り去り、危険に遭遇することもある。

佐藤は大通りに至り、青に変わった横断歩道を渡ると、スーパーに到着した。

ここは大型店ではないものの、生鮮食品に定評があり、幾つかの目玉商品が破格の値段で売り出されるため、この辺りのスーパーでは一番の賑わいを誇っていた。

佐藤が惣菜コーナーに到着すると、五人ほどの客が付近に立っていた。

弁当に目を向けると、割引シールは貼られているが、まだ三割引のものである。彼らは商品を選ぶのでもなく、そわそわとした様子で辺りを窺っている。

もう間もなく、半額のシールを貼りにくる店員を待っているのだろう。佐藤もその中に加わった。ここにいるメンバーの数人は見知った顔である。向こうも佐藤の存在に気付いたようだ。そのうちの一人である老女は、すでにシャケ弁当を手に持っている。そのような厚かましい行為を佐藤にする勇気はない。しかもこの老女は過去に、すでに貼られた半額のシールを剥がし、まだ割引かれていない別の弁当に貼り、なに食わぬ顔で去っていったことがある。佐藤は側でその一部始終を見ていた。干からびた皺だらけの手で、罪を犯すこの老女の姿を見つめていた。

しばらくして店員がやってきて、順々に半額のシールを貼っていくと、どこからともなく大勢の客もやって来て、次々と弁当や惣菜に手が延びていく。

佐藤はその中でマグロの漬け丼を手に取ると、レジに向かった。





五 


朝が来た。

今日は日曜だが出勤日である。泊まり勤務のある警備員は、暦と勤務サイクルは関係ない。

支度を済ませた佐藤は、スーツの上にダウンジャケットを重ねると、家を出た。

通勤時の服装に指定はなく、私服を着てもいいのだが、佐藤はスーツを着て会社に行った。その理由は、入社時の研修で言われたためである。

―きびきびとした立派な警備員は、常日頃の心掛けができている。

―普段も折り目正しい格好をすることで、早く一人前の警備員になれるのだ。

―通勤のときから、すでに仕事は始まっている。

そんなことを真に受け、入社当時から通勤にスーツを着用している。

しかし、佐藤のいま着ているスーツは、皺だらけのものである。クリーニングに出したり、アイロンを掛けたりする行為は、長いこともうしていない。しかも、長年着古した一張羅のため、所々のテカリが激しい。当然だがネクタイもしていない。初心を忘れた今であれば、私服でもよさそうだが、それでもスーツを着ていく訳は、服を選ぶ手間が省けるからだ。ファッションに興味がなく、所持する服の少ない佐藤にとって、スーツは便利な服だった。

駅前に到着し、駐輪場に自転車を止め、少し歩いて陸橋に至ると、閑散とした日曜朝の改札を潜っていく。

佐藤はがらがらの車内に乗り込むと、端の席に座った。

電車が進んでいくにつれ、車窓から見える薄闇は徐々に明るくなる。

幾つかの停車駅を過ぎ、途中で一級河川大きな川に差し掛かると、東の地平に太陽が輝く。その川を超えて都内に入ると、終点はすぐそこである。

制服に着替え、交代を済ませた佐藤は、建物の玄関に向かった。今からの一時間、早速立ち番をするためである。

ここは事務所ビルのため、休日は人がいなくなり、立哨はあまり意味がない。だが、それでも行うのには訳があった。いわゆる隊長の点数稼ぎである。どこへのアピールかといえば、建物を管理する会社の人間である。

警備会社は、建物を管理する会社から仕事を請け負うことが多い。ここも例外ではなく、建物を所有するのは大手不動産会社で、その子会社である管理会社を間に挟み、村岡ビルマネジメントが管理を行っており、村岡から委託を受けて、佐藤の勤務するトウカイ警備は業務を行っている。建物の維持管理を行う村岡の社員は、中央管理室で警備員と一緒に常駐している。この二社の序列は、仕事を頂いている関係上警備会社が下になり、中央管理室の責任者である室長も村岡の社員である。その他にも、警備はビル管理から指示を受けて行う仕事もあり、当然頭が上がらない。

この村岡の人間へのアピールのため、警備隊長は必要のない業務をやらせるのである。そこにある隊長の意図が、建物をよりよくするためや、トウカイ警備の名を上げるためならまだ許せるが、単なる処世術なのがまるわかりである。必要以上におべっかを使い、自らの出世のためか、本社へも目が向いている。そのため、当然だが隊員に嫌われているものの、小判鮫のような警備員がいることも見逃せない。そんな隊長の下で仕事をする副隊長の佐藤は、付かず離れずの関係で業務をこなしている。

立哨開始から一時間が過ぎ、佐藤は中央管理室に戻った。この間に佐藤の前を通り過ぎた人間は、数名だけであった。

しばらく中央管理室で待機したのち、佐藤は紺のコートを着て、一階の駐車場出入り口へ向かった。

この誘導業務も、本来は必要ないものである。頻繁に車が出入りする施設ならいざ知らず、また特段危険でもない場所に、誘導員を配置する意味は見出だせなかった。むしろ事故でも起きた場合、警備員の責任が問われてしまうのである。警備員がしっかり見ていたなら、事故は防げたという論法だ。隊長はそこまで頭が回らないのか、自分の点数稼ぎに汲々としている。

佐藤は誘導棒を持ち、寒いなか突っ立っている。雨が降っていないだけ、ましというものであろう。

三十分程して、一台のトラックが進入してきた。高さ制限があるために、進入路の見やすい箇所に、当然最高高さが掲示されているが、警備員は確認を行わなくてはならない。事故が起きてしまえば、責任の一端を負わされるのは明らかだからだ。佐藤は運転手に高さを尋ね、問題ないことを確認して地下へ促した。

「あのぅ……」

佐藤は通行人に声を掛けられた。

「この場所は何処にあるのでしょうか?」

そう言って一枚の地図を差し出したのは、リュックを背負った高齢の男である。男の指し示す場所は、ここから程近い江戸時代の史跡であった。

佐藤は丁寧に道を教えると、旅行者と思しき男は深く一礼し、去っていった。

今日は一つ良い事をした、佐藤は胸の中でそう思った。

結局ここにいた一時間、建物に出入りする車は一台しかなかった。

ただそれでも佐藤は、車両誘導や休日の立哨を、意義のある行為だと思っていた。例え隊長に邪(よこしま)な意図があったとしても、少しでも建物や利用者のためになるのであれば、それは良いことなのだと考えていた。


佐藤は中央管理室に戻ると、異常がないことを隊長に報告し、机に座った。

「ご苦労さん」

そう声を掛けた隊長の視線は、手元のスマホに釘付けである。

休日は室長が居ないため、隊長は伸び伸びとしている。三名ほど村岡の社員が勤務しているものの、ほぼ手なずけている。休日になると隊長は、買ってきたお菓子を皆に配り、ご機嫌取りに余念がない。

昼食を済ませた佐藤は、休憩時間を終えると、建物の巡回に向かった。

休日はトラブルが減るものの、平日より警備の数が減るため、業務を少ない人員で回さなくてはならない。何か事が発生すると、対応にも苦労する。

二五階でエレベーターを降り、誰も居ない廊下を進む。屋内階段への扉を開け、一歩足を踏み出すと、中央の踊り場にスーツを着た男が座っている。

(何をしているのだろうか?)

佐藤は訝(いぶか)しげに階段を登っていくと、男は頭を抱え込み、うずくまった。

「どうされましたか?」

佐藤は声を掛けた。

「……」

男からの反応はない。

「大丈夫でしょうか?」

佐藤は再び声を掛けた。

すると男は顔を上げ、

「ほっといてくれよ!」

と言って手を払いのけた。

こんなときマニュアルでは、深入りしてはならないと決められている。

「……屋上に行くので、通りますね」

佐藤は男の横を通り過ぎ、階段を上まで登ると、扉を開けた。

屋上に出ると、眩いばかりの光が降り注いでいる。風は一切なく、一月とは思えない陽気に包まれている。

佐藤は屋上を一回りし、異常がないことを確認すると、建物へ引き返し、階段を降りていった。

「……通りますね」

男はまだ踊り場に座っている。

何かあったのかもしれないが、刺激してはならない。

ビルに入居する人間は、大事なお客様である。

佐藤は慎重に階段を下りきり、ドアノブに手を掛けると、

「なあ警備員さん」

と声を掛けられた。

佐藤が振り向くと、

「いいよな、あんたの仕事は楽そうで」

と大声で男は言った。

佐藤には答えようもないが、このまま無視して行くわけにもいかない。

「俺の仕事と変わってくれよ」

男はそう言うと、両手で顔を覆い、哀願する口調で「頼むよ……」と付け加えた。

佐藤は対応に困ったが、

「私にできることがあるでしょうか……」

と小声で言った。

この三十代とおぼしき男は、しばらく佐藤を見つめたあと、

「ないよ。ない。何をしても納期には間に合わない」

と観念したように答え、もうどっか行ってくれ、とぶっきらぼうにいい放った。

佐藤は男のことが気になったが、これ以上ここにいても刺激するだけだと思い、軽く一礼し、扉を開けて去っていった。

そのあと残りの各階を回ったが、休日のフロアは至って静かなもので、異常は階段の男以外にはなかった。

休日や夜間の巡回は、静かで何もないことが多いものの、嫌な出来事に遭遇するのは、人の居ないこの時が多かった。

この建物ではないが、過去に勤務していたある企業の本社ビルで、佐藤は夜間の巡回中に第一発見者となった。何を見つけたかといえば、トイレで首を吊った社員である。

若かった佐藤は腰を抜かし、床に尻をつけながら後ずさりしたものの、どうにか無線で助けを呼び、事に当たったのであった。

それ以後の勤務では、大きなトラブルに見舞われることもなく、淡々と日々は過ぎていった。

佐藤は建物をすべて回り終え、地下一階の中央管理室へ戻った。



佐藤さん、佐藤さん、交代の時間です

暗闇から小声が届き、仮眠時間が終えたことを知る。

佐藤はむっくりと上半身を起こし、無意識に布団から足を出すと、床に置かれた靴を弄(まさぐ)った。緊急時にすぐ対処できるよう、サンダルは厳禁である。

靴を履き、二歩進んで暗い仮眠室を出ると、隣室には休憩室がある。そこを出て廊下に至り、蛍光灯に目が眩みつつ歩いていくと、中央管理室にたどり着く。

「特に異常はありません」

交代要員から申し送りを受け、佐藤は机に座った。

休日の宿直人数は四名である。村岡ビルメンテナンスの人間が二名と、トウカイ警備の人間が二名である。隊長は日勤業務のために十七時には帰り、いま警備を統括するのは佐藤であり、現場の責任者は村岡の若い社員である。

現在は夜中の一時で、中央管理室で待機しているのは佐藤と村岡の社員二名である。

佐藤はモニターに目を遣った。これからの数時間、六台のモニターを監視しながら時間が過ぎるのを待つ。ここにある機器はひと昔前の製品のため、警戒センサーのようなものはない。真面目な性格の佐藤は、気を張りつめて画面の観察を始めた。

いま一緒に待機する村岡の社員とは、長い付き合いではあるものの、時間潰しのための会話をすることもない。相手は椅子に座り、転(うた)た寝をしている。佐藤から問い掛ける話題も特にない。

何も起こらず二時間が過ぎ、もう一人の警備員を起こして三人になったところで、佐藤は建物の巡回へ向かった。

エレベーターに乗り、扉が音を立てて閉まると、静かに上昇してく。このエレベーターも旧式で、速度は緩やかである。二五階に辿り着くと、籠が僅かに動揺し、扉が開いた。

佐藤は一歩二歩と踏み出し、進んでいった。

屋内階段に到着し、屋上に向けて上がっていく。先程の男はもういないようだ。

扉を開けて屋上に出ると、佐藤は手持ちの懐中電灯照らし、歩きながら周囲を確認していった。

昼間の暖かさとは違い、底冷えのする寒さである。

「……?」

手に持つ懐中電灯の光が、フェンス脇で座り込む一人の男を捉えた。佐藤は小走りで駆け寄った。

「どうされましたか?」

顔にライトを当てると、男は眩しそうに眼を細め、手を翳した。

(この人は……)

よく見るとその男は、昼間階段にいたスーツの男であった。

佐藤はライトの向きを変え、男の顔を見た。その眼は虚ろである。

(どうしてこんなところに……)

理由は分からないが、男は身体を震わせている。

「風邪をひきますよ」

佐藤はそう言ってビル内に促そうとしたが、男は動こうとしない。仕方なく男の両脇を抱えて立たせると、身体を抱えたまま扉まで向かった。

ようやくビル内に入り込むと、佐藤は男を階段に座らせて、

「少し待っててください」

と言って階段を駆け降りた。

しばらくして、佐藤は缶コーヒーを手にして戻ってきた。

「どうぞ」

立ったまま佐藤が差し出すと、

「ありがとうございます」

と元気のない声で男は答え、缶を受け取った。

佐藤を詰(なじ)った昼間の勢いは何処かへ消えている。

男は両手で缶を握り締めたまま、絞り出すように言葉を紡ぎ始めた。

「今回納期が遅れると、この会社では二度目になるんです……」

佐藤は立った姿勢のまま話を聞いた。

男はコンピューターのソフトウェア会社で働き、エンジニアのプロジェクトリーダーを務めているという。会社の営業が、複雑な要求を安請け合いし、不可能な納期で仕事を取ってくるため、いつも夜遅くまで働いているそうだ。

「受注競争が激しいのは分かるのですが……」

 現場にしわ寄せが来て、上手く業務が回っていないという。

「一度目は、完全に私の設計ミスで遅れてしまって……」

いま男が担当する企業は、会社がようやく獲得した大口の顧客だという。

「どうあがいても間に合わない。私は責任を取らされる……」

男は目を瞑り、うな垂れた。

「先方に言えば……」

佐藤はそう言いかけ、言葉を押し止めた。

言えば分かってもらえるかもしれない。この状況を打開するには、それしかないのではないか。謝罪をし、誠心誠意事に当たれば、先方は理解してくれるかもしれない。それ以外に方法はないのではないか。佐藤は思った。

ただ、状況も知らないくせに、口を挟むべきではないことは分かっていた。

「どうしよう……」

男はそう言ったきり、押し黙った。

静けさが、二人きりの階段室をしばらく支配した。

佐藤の今までの人生にも、どうすることもできない場面はあった。

そんなとき、佐藤はひたすら耐えてきた。自分の感情を押し殺し、時が過ぎるのを待った。

―あんたの仕事は楽そうでいいよな。

昼間そう貶(けな)されたが、佐藤なりに、仕事で苦労を重ねてきた。

隊長に怒鳴られたこともあれば、施設の入居者から苦情を言われたこともある。厳しいビジネスの世界とは違うかもしれないが、一生懸命働いてきた。

階段室を満たす冷気が、二人の体内を侵していく。さらにその冷たい空気が、静寂を密にしていく。

立ち続ける佐藤の体温は、徐々に奪われていった。

「……コーヒー、飲んでください」

佐藤が思い切って声を掛けると、男は顔上げた。

「もう冷めちゃいました……」

男ははにかみながらそう言うと、蓋を開け、口をつけた。

「はぁ……」

一口飲み終えて息を吐くと、男は缶を脇に置き、再び頭を抱え込んだ。

コーヒーを飲んだところで、状況は何も変わらないかもしれないが、佐藤にはどうすることもできない。

しばらく沈黙が続いたあと、ようやく男は顔を上げた。

そして、

「仕事に戻ります……」

と力なく呟いた。

「お付き合いさせてすみませんでした」 

男は立ち上がり、肩を落としながら階段を下りて行った。

(少し時間が経ってしまった……)

佐藤もその場から立ち去ると、急ぎ足で各階を回り始めた。




時計の針は、夜中の1時を過ぎたところである。

佐藤は眠気を我慢しつつ、椅子に座ってモニターを眺めていると、インターホンが鳴った。

こんな時間に誰だと思いながら、受話器を取って応答すると、悲鳴とも叫びともつかぬ声が聞こえ、思わず受話器から耳を離した。少し間を置いたのち、耳を当てて用件を訊ねると、今度はくぐもった小さな声が届いた。ただし、何を言っているのか聞き取れない。モニターを確認するも、人の姿が確認できない。

「ちょっと行ってきます」

佐藤は相方である村岡の社員に告げると、警棒を握りしめ、中央管理室を出た。

一階の裏口に到着すると、ガラス扉を必死に叩いている男が見えた。

「どうしましたか?」

佐藤は解錠して扉を開けた。

「どおもこおも、ねぇんだよぉ!」

男は明らかに酩酊している。

「なぁんでぇ、かぎがしまってんだぁ!」

薄茶のコートを羽織り、シャツとネクタイをはだけさせた男は、足をふらつかせながら叫んでいる。

「用件は何でしょうか?」

佐藤がそう言うと、男はヒクッと息を飲み、

「ん? だれだおまえは」

と座った眼差し見せた。

「あの……何をされたいのでしょうか?」

佐藤が丁寧に尋ねると、

「どけ!」

と男は佐藤を突き飛ばし、奥へと進んでいった。

「待ってください」

走って回り込んだ佐藤は、両手で男を静止した。

「用件は何ですか? 部外者は立ち入り禁止です」

「ぶがいしゃ? キサマァ、けいびのぶんざいでぇ」

男は足をよたよたさせ、今にも転びそうである。

「かいしゃに、とまるんだよ。どけぇ!」

「入館証を見せてください」

佐藤は冷静に対応した。もし男が入居者ならば、お客様に粗相は厳禁であるが、万一部外者の酔っぱらいを入れたとなると、責任問題に発展する。

「ア? にゅうかんしょう? カバンだよぉ、カバ……ン?」

男は掌をヒラヒラさせ、辺りを見回した。

「……ない。カバンはどこだ?」

男はその場に固まり、数秒ほど記憶を探ったあと、来た通路を戻ろうとしたが、よろけて大きく転倒した。

「大丈夫ですか?」

佐藤は駆け寄り、男の前にひざまずいた。

「……あ、あぁ……」

身体を横たえた男は、半開きの口から声を漏らした。

頭は打っておらず、転倒した部位を手で確認すると、怪我もないようである。

佐藤は男の上半身を起こした。

すると男は、

「……み、ず……を、くれ」

と振り絞るように言った。

「分かりました。ここで待っていて下さい」

佐藤はそう言うとその場から離れ、洗面所に向かった。

しばらくして水を入れたコップを持ってくると、男は床に寝そべり、いびきをかいていた。

「お水を持ってきました」

そう声を掛けても目を覚ます気配はない。

こんなところで寝かすわけにもいかず、何度か肩を叩いて揺さ振ると、

「……あ、あ」

と口を開き、目を半分開いた。




続く







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