2017/07/29

メルカリとヤフオクを徹底的に比較する メルカリの出現と個人売買における自然淘汰









モッファさんによるイラストACからのイラスト 


インターネットが広まる以前は、個人売買の手段は主に公園などで開かれるフリーマーケットで、私も若い頃、洋服や靴を安く購入するために通ったりしました。

その他には、様々な雑誌の一角に設けられたコーナーで、細々ながらも個人間取引が行われていました。






それがヤフオクの登場で一変し、他の手段は完全に隅に追いやられてしまいました。

アメリカではeBay(イーベイ)がシェアを拡大していきましたが、日本ではヤフーオークションが広まり、私も黎明期よりは少し後れますが、手数料が無料だったときからのヘビーユーザーでした。

2017/07/24

純文学小説「空蟬」の作者による導入解説








本記事は、純文学小説「空蟬」の作者である私が、小説を読むにあたり、事前に知っていればより深く理解できる情報を記したものになります。

ただし、以下の事柄を一切知らなくても、分かりやすく楽しめる現代小説となっています。

まず、題名の空蟬(うつせみ)とは、「蝉の抜け殻」を意味しています。

その他にも「虚脱状態」「儚(はかな)いもの」を表し、元々は「この世に生きている人」という意味だとされています。


次に、序文の弘法大師の詩を説明します。



一心の趣を談ぜんと欲すれば 三曜天中に朗らかなり

いっしんのおもむきをだんぜんとほっすれば さんようてんちゅうにあきらかなり



いま私の心境を語ろうとするならば、日と月と星が天空にくっきり輝いているようなものである



これは、弘法大師が詠んだ中寿感興(ちゅうじゅかんきょう)と呼ばれる詩の一節であり、40歳になった大師が、晩秋の大自然を前に自身の心境を表したものになります。

この詩の全文は、弘法大師が著した漢詩の文集「性霊集(しょうりょうしゅう)」に収められており、以下に「白文・書き下し文・現代文」を示します。



白文


黄葉索山野


蒼蒼豈始終

嗟余五八歳

長夜念圓融

浮雲何處出

本是浄虚空

欲談一心趣

三曜朗天中 




書き下し文


こうよう さんやにつくるも
黄葉 山野に索くるも

そうそう あに しじゅうあらんや
蒼蒼 豈 始終あらんや

ああ  われ  ごはちのとし
嗟   余    五八の歳

じょうやに えんゆうをおもう
長夜に 円融を 念う

ふうん いづ れのところよりかいづ
浮雲 何れの処よりか出づ

もと  これ   じょうこくう
本 是れ 浄虚空

いっしんのおもむきを    だんぜんとほっすれば
一心の趣を 談ぜんと欲すれば

さんよう   てんちゅうにあきらかなり
三曜 天中に朗らかなり




現代語訳


黄ばめる葉が山野で散り果てても


青い天空には始まりもなければ終わりもない

ああ 私は四十の歳

長き夜に円満な世界を表す仏を思う

浮き雲はどこから現われたのか

本来それは清らかな虚空なのだ

わが心の世界を語ろうとするならば

それは日と月と星が中天に明るく輝いているようなものである




という文になります。

本書を読み終えた後、冒頭のこの詩に戻ってくると、最後の場面が理解できるはずです。

そして空海の開いた真言密教とは、欲を捨て去る原始仏教とはまったく異なり、怒りだけでなく性欲さえも、高次なものに昇華させるならば是とし、またすべての物事には実体がないとする仏教の基本原理である無我や、大乗仏教の根本原理であり、ややもすると世界をペシミスティックに捉えてしまう空の思想を超越し、ありのままの人間や現実世界を強烈に肯定する宗教です。

そして、その教義である即身成仏とは、来世で悟りを得ようとするのではなく、現世において、この生身の人間のまま成仏できることを説き、現在の自分と、大宇宙の真理である仏と一体になることです。

空海はこの即身成仏について、その理論的根拠を「即身成仏義」という著書で明らかにしています。

このように本小説は、空海や仏教と関連した意図を持たせていますが、本文にそのようなことはまったく出てこず、誰にとっても分かりやすく、また面白い現代小説となっていると自負しております。







参考文献
弘法大師空海全集〈第6巻〉詩文篇(2)    筑摩書房 空海全集編輯委員会 




2017/07/22

坂本龍馬はスパイではなく英雄だったことを数々の手紙の内容から結論付ける








坂本龍馬の実像 スパイ 英雄 龍馬の手紙 国士

坂本龍馬
Wikimedia Commons パブリックドメイン 



目次 読了時間20分




  1. 近頃の龍馬に対する批判的な評価
  2. 龍馬の残した手紙
  3. 通貨発行権など国家の礎となる財政について言及
  4. 攘夷と開国を両立させる尊王開国の思想
  5. 死生観
  6. ひょうきんな一面とその志
  7. 武器商人としての龍馬
  8. 極端な尊王思想
  9. 龍馬が脱藩した3つの理由
  10. 長州に根付く吉田松陰の教え
  11. 幕臣・勝海舟の門弟となる
  12. 薩摩藩の庇護を受ける
  13. 内戦を避ける大政奉還の成立に奔走
  14. 資金繰りに苦しんでいた亀山社中
  15. 外国人に対する記述
  16. ジャーディン・マセソンの背後にいたサッスーン財閥とロスチャイルド
  17. 中央銀行の設立に深く関わった大蔵少輔・伊藤博文
  18. 吉田松陰と伊藤博文の関係性
  19. ハザールユダヤ人であったマシュー・ペリー
  20. 日本の植民地化をあわよくば目論む諸外国
  21. 日本が一つに結束してしまう新政府綱領八策
  22. 龍馬の新国家に対する想い




1 近頃の龍馬に対する批判的な評価




「グラバーの手先でしょ」

「単なる武器商人なんだよね」

「フリーメイソンに入っていた怪しい奴だろ」

「イギリス勢から資金援助をしてもらっていたんだよね」


「ロスチャイルドに操られていたみたいだよ」



以上は龍馬について最近よく言われることです。




薩摩や長州ら官軍が善で、幕府が悪という従来の一方的な史観を改め、明治維新を見直す機運が高まるにつれ、龍馬の評価についても賛否が別れるようになってきました。

2017/07/21

風姿花伝の言葉「秘すれば花なり」の意味を現代の事例から分かりやすく説明します






秘すれば花 世阿弥 風姿花伝 花伝書

能面 小面(こおもて) 
撮影者 Sailko  Wikimedia Commons  CC BY 3.0



室町時代の能役者・世阿弥は、芸術論を記した風姿花伝(花伝書)を後世に残しています。

その中に、


秘すれば花なり


という言葉があります。





この言葉の意味は、隠すことによって重要性が増すということです。

そのことを、人間が持つ「好奇心」を例に上げて説明します。

作家・松谷みよ子氏の有名な絵本である「いないいないばあ」は、長年愛され続けているベストセラー作品で、どんな赤ちゃんも気に入るといわれています。

本の内容は、顔を両手で隠し、いないいないばあ、という掛け声と共に両手を開き、ただ顔を見せるだけの単純なものですが、たったこれだけで、赤ちゃんはキャッキャッと顔を綻ばして笑います。

これは、顔を手で隠すことによって、その未知の部分に対する興味が大きく膨らみ、それが開示されることで、抱いた好奇心が満たされ、満足していることを意味しています。

つまり隠されることで、対象により興味を抱くということです。


隠すことによって、その対象が可憐な花に見えてくる。


秘することで花となる、ということです。

次に本の読み聞かせについて考えてみます。

幼少期における豊富な読書体験は、名を残した科学者など必ず共通項として挙がります。

親の側で話を聞きながら、自分の頭をフル回転させて映像を作り出し、この話はどのように続いていくのかと好奇心が刺激されていきます。

つまり、先の話が隠れていることで好奇心が刺激され、追い求めたい花となり、成長してからも、隠された真理を追い求める花と定め、探究という挑戦の道に進んでいくということでしょう。

そして、人間において隠れているものといえば、生殖器と排卵期になります。

ヒトという種族は、性器や排卵の時期を隠している特殊な生き物です。

人と共通の祖先を持つボノボとチンパンジーは、言うまでもなく裸で生活をしています。

また、ボノボの雌には偽の発情があるものの、チンパンジーとボノボの雌は、排卵が近づくと性皮と呼ばれる外陰部をピンク色に膨張させ、雄に発情期であることを知らせます。

他にも、雌から嗅覚的な信号であるフェロモンが強く発せられ、さらにチンパンジーの雄は、雌の性器に指で触れ、その匂いから本当に妊娠可能かを調べることもあります。

我々人間は、有性生殖の核心となる交尾を、性器や排卵期を隠すことで難しくしているのですから、何らかの理由(選択圧)でそうなったとしても、人間には、「隠れているものを暴きたい」という資質が備わっていることになります。


秘すれば花なり


この言葉は人間を貫く法則だと思われます。




レイ5100さんによる写真ACからの写真 



そして、その隠れた対象を暴くために、想像力を駆使してきたことは、人間の一面に違いありません。

ただし、秘され続けると、それは花ではなくなります。

そのことを子供たちが遊ぶ「かくれんぼ」で考えてみます。

隠れた友達を探している子が、はじめは「どこにいるかな」とか「どんなところに隠れているかな」と好奇心を持って探します。

しかし、いつまで経っても見つからないと、子供の好奇心は萎(しぼ)み、探すのを諦めてしまいます。

このことは「いないいないばあ」についても当てはまり、顔から手が一向に離れなければ、赤ちゃんは好奇心を失っていくでしょう。


逆にそれと同時に、かくれんぼであまりにも分かりやすい場所に隠れていると子どもは面白くなく、それは花でなくなります。

これは、謎解きなどで出された問題が簡単だとつまらなく感じ、難し過ぎると挫けてしまうのと同じかもしれません。

筋トレにおいて、負荷が小さいと意味がなく、負荷が大きすぎると筋肉が壊れてしまうのも同じことかもしれません。

また、簡単に手に入るものに価値を感じず、苦労して手に入れた物に愛着や魅力を感じることと同じかもしれません。


つまり、秘すれば花である条件とは、開示されることが前提となっているということです。

どうあってもお披露目されない秘仏、どうあっても手に入らない物、どう努力しても届きそうにない目標、どうあがいても勝てそうにない強敵は、多くの人にとって花にならないということです。

しかし、一部の人間にとっては、ほんのわずかな可能性こそが、望みの大輪となるのかもしれません。














2017/07/13

言葉の力が記された本「天風先生座談」 ペンは剣よりもメスよりも強し







言葉の力 いろは歌


ancoさんによるイラストACからのイラスト





私たちは信じている。言葉のチカラを


引用 朝日新聞社 会社案内 ジャーナリスト宣言


このキャッチフレーズは、朝日新聞がコマーシャルで使用したものですが、言葉や言論は、ペンは剣よりも強し」であり、ときに物理作用をも引き起こす破壊力を秘めた道具になります。





よって、言葉とは間違った方向ではなく正しく使うべきものです。

ドイツの哲学者であるイマヌエル・カントは、若い頃医師に言われた一言によって、自らの運命を変えることとなりました。

2017/07/08

男や女に限らず人間の若さには価値があるのか?








Gerd AltmannによるPixabayからの画像 




若い時代は、二度と戻ってきません。

ときに背伸びして、ときに粋がって、ときに失敗して、そして傷付いて。それが若さの特権かもしれません。





ボクの音楽武者修行」という一冊の本があります。

若かりし指揮者の小澤征爾氏が、日本を飛び出してヨーロッパへ渡り、スクーターで一人旅をしながら各所を訪れ、現地の人たちに支えられ、フランスのブザンソンで開かれた指揮コンクールで1位を獲得し、音楽家としての人生が開けていく過程が綴られた内容です。

この本を評するならば、みずみずしい精気が溢れ、向こう見ずな若さが、読む者の交感を引き起こす青春の書と言えるでしょう。

2017/07/02

失敗とされるマシュマロ・テストから考える我慢と従順の違い







マシュマロテスト

pixel2013によるPixabayからの画像 



マシュマロ・テストとは、1970年頃に、スタンフォード大学の心理学者・ウォルター・ミシェルが、4歳の子供たちの自制心を調べるために行ったテストのことです。

実験方法は単純なもので、机と椅子のみが設置された部屋に子どもは通されます。





その机の上には、お菓子のマショマロが1つ載せられたお皿があり、子供は椅子に座った後、次のように大人から言われて一人ぼっちにされます。


「ここにあるマショマロをあなたにあげる。ただ、これから私は外に出かけ、もし戻ってくるまでの15分間に食べるのを我慢できたら、もう1つマショマロをあげる」


この実験の真意は、将来の大きな報酬に対し、現在の欲望を抑えることができるのか、という自制心(self control)を測るものです。

実験の結果は、



すぐに食べてしまった子供は僅か(わずか)であった。

3分の1の子供が、15分間我慢して2つ目のマショマロを手に入れた。

残りの多くの子供が、目を逸らしたりして我慢するも、誘惑に勝てずに結局食べてしまった。



そして、この研究には追跡調査があり、20年近く経たあとに判明したことは、我慢と成功の相関関係でした。

つまり、我慢して2つのマショマロを手にすることができた子供は、大人に成長してからの社会的な成功度合いが、我慢できなかった子供よりも高かったのでした。

ただし、この調査における成功とは、両親から優秀だと思われていたとか、SAT(大学進学適性試験)で好成績を収めていたとかです。


それが果たして成功に値することなのか疑問が沸き起こりますが、ここはひとまず成功の定義を脇に置き、ここで私が主張したいことは、目の前に出されたマショマロを、15分も食べずに我慢するような子供は、本当の成功を手にすることはできないということです。


では、どのような子供が真の成功を手に入れることができるのでしょうか?


それは、すぐに1つ目のマショマロを食べた子供の中にいます。

実験の時にはいなかったのか、無視されたのか分かりませんが、本当の成功を掴むことができるのは、まず目の前のマショマロを平らげ、さらには、2つ目のマショマロをどうしたら手に入れることができるかを考える子供なのです。


つまり、与えられた前提条件を疑うことのできる思考を備えている子供なのです。


なぜそうなのかを今から説明します。


我慢という性質は非常に大切です。

一般的に、成功者と言われる人たちは、他人からは我慢しているように見えても、当人は、好きなことであったり、確固たる意志を持っているため、我慢だと感じていないケースが多いとはいえ、私も当ブログで述べているように、食欲などを我慢することは遺伝子に逆らうことであり、人間を人間たらしめるために不可欠な鍛練だと考えています。

しかし、成功に至る過程においては、我慢をすることよりも、前提条件を疑うことの方がよほど大切なのです。

例えば、仕事でも自分のことでも、何らかの問題に突き当たったとき、我々は様々に考えを巡らせて対処をします。

簡単な問題なら、手を尽くした中で一応の解決が図られますが、難しい問題となるとそうはいきません。

そのときに必要なことは、当ブログでも延べているように、多角的な視点から深く考え続けることです。


その多角的な視点から深く考える方法として、前提条件を疑うことが大切になってくるのです。



我々が直面する重要な問題は、それを作り出したときと同じレベルの考えでは解決できない。

The significant problems we face cannot be solved at the same level of thinking we were at when we created them.


この言葉は、知の巨人アルベルト・アインシュタインが遺したものですが、これは、作った問題そのものを疑うこと、つまり、その問題を成り立たせている諸条件を疑うことが必要であることを述べているのです。

そして、我慢ができることとは、問題を最初に作り出した条件の中で、もがき続けてしまうことを意味します。

日本における学歴主義の功罪の1つに、嫌なことを我慢する能力が身に付いてしまうことが挙げられます。


学歴の勝者というのは、多くの場合、親や教師に言われるがまま
自分の気持ちを押し殺し、無味乾燥の暗記をこなしてきており、良くも悪くも、面白くないことを我慢して続ける能力が身についています。

東大生の多くは、親から勉強しろと言われたことがないそうですが、そこまで無意識に刷り込んでいるとも言えるでしょう。

私の知人に、御三家からドロップアウトしてFラン大学に入った方がいますが、親からの期待が苦しかったと言っていたように、その期待が直接的か間接的かを問わず、教育の目的とは、人格ある一人の自立した人間の育成とするならば、知人の反応は間違いではありません。

一方の学歴勝者は、我慢をしてきた、もしくは我慢をしてきたことすら気付かず、勉強を継続してきたと言えるでしょう。

もちろん中には、偏差値の高い大学には一部に本当に優秀な学生がいて、そのような人たちと切磋琢磨したいとか、また、是が非でもあの大学のあの学部で研究をしたいという理由のため、今は面白くない受験勉強を我慢して行う生徒もいるでしょう。

しかし、ほとんどの高校生が受験勉強や学校の教科書を面白いと思えていないことから、受験の意義を疑わずに勉強をしてきた学歴の勝者は、我慢に対する耐性が知らずに身に付いていると思われます。

そのため、我慢をすることが成功の条件と思われている節(ふし)がありますが、彼らが大きな問題に直面したとき、問題を疑わずにそのまま受け入れてしまう態度をとり、その中で考え続けてしまうため、解決に至らないことが出てくるのです。

さらに、自分の気持ちを押し殺し、我慢してきた弊害として、自分の本当の気持ちが分からない人間となっているため、自分にとっての人生の目的を見つけられず、真の成功者とは成り得ないのです。

ここで、真っ先に1つ目のマシュマロを食べる子どもは、自分の欲望に忠実であり、自分の気持ちに正直であることの証です。

人生には、ここぞというときが何度か訪れます。

そのときに、本当に必要なことであれば、結果の如何を問わず、どんなことがあっても手に入れようとする強固な意志が必要です。

この強固な意志は、自分の気持ちに正直に生きてきた子供こそが、育んでいけるものなのです。


ここでまとめますと、


我慢ができることは大事な性質であるが、嫌なことまで我慢する習性が身に付くと、重大な問題に直面した時、その問題自体に拘泥(こうでい)してしまう。さらには自分の本当の気持ちが分からなくなり、自分の人生の目的を見つけられず、自分ではなく他人のための人生を生きることになる。


1つ目のマショマロをすぐに食べた子供は、自分の気持ちに正直であり、将来強固な意志を持つことができる可能性がある。


1つ目のマショマロを食べたあと、2つ目をどうしたら手に入れられるかを考える子供は、与えられた課題の前提条件を疑うことのできる思考を備えているため、将来大きな問題に直面したとき、問題に固執せず、突破口を開くことができる可能性がある。


2つ目を貰う口実として、ネズミが食べてしまったとか、マジックで消えてしまったとか言う子供がいるかもしれませんが、そんな発想ができることは、決して牽強付会(けんきょうふかい)ではなく、子供らしい自由で豊かなと捉えることができ、このような子供こそが、将来成長したときに、真の精神的な成功を収めることができるのではないでしょうか。

ただし、我慢してきた学歴勝者の中にも、もしかしたら、子供の教育のためだと勘違いしている親に対し、その親の限界や不条理ささえ包み込み、その期待を一身に引き受けるだけの度量を持つ子供がいるのかもしれません。

そういう子供であれば、弘法大師のように、一族の期待を一身に背負い、将来官界で活躍するために蛍の光や窓の雪で明かりを取り、眠気を防止するために錐(きり)を膝に立てて勉強したという中国の故事を思いながら机に向かった結果の大学でさえ、辞める決断ができるのかもしれません。

つまり、過去の自分を支えてきた一切の前提条件を、捨て去ることができるような子供が、もしかしたらいるのかもしれません。

また同じように、塾での勉強や受験の意義を疑わずに高学歴を勝ち取った秀才も、その大学のブランドを捨て去った先にこそ、本当の成功が見えてくるのではないでしょうか。






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2017/07/01

外国人旅行者に振舞う日本の家庭料理は何にすべきか?








canvaより



旅行先での楽しみと言えば、その国の食文化に触れることが1つ挙げられます。

ただし、旅先で接する食事とは、観光地の旅行者向けレストランであったり、ホテルでのお仕着せの料理であったりと、皮相的な食文化の体験に留まることも多いようです。






本来の食文化とは、その国に根付き、市井(しせい)の人が日常食べている家庭の味になります。

日本では、彼氏が彼女に作って欲しい料理に、よく肉ジャガが挙がります。